✎「獨協大学新聞学会」発足 新聞部というクラブ活動は「獨協大学新聞学会」と名乗って発足しました。全員一年生です。同学年でありながら、1~2年の年齢差があり、現役(獨協高卒)の私には同級生を呼び捨てにすることはできないし、クラブ名にこの名称を使いたいと言われれば反対はできませんでした。 「独協大学新聞」の題字は天野貞祐学長の筆によるものです。部員一同が「?」と思ったのは、獨協大学でなく、独協大学と表示されていたからです。この理由を尋ねたところ、「独協大学は新しい大学です。新しい文字にしたい」とのことでした。ちなみに部長は土井虎賀寿先生にお願いしました。 残念だったのは、卒業証書は天野先生の自筆を印刷したものでしたが獨協大学になっていました。せめて天野先生が在任中は独協大学で通していただきかった、と思います。 ✎ 天野貞祐学長の教育方針 創刊号の編集会議で〇〇さん(名前は思い出せません)に寄稿文を頼みたい、と委員長(部長は教員と決まっていて部活の代表は委員長としました)の提案で決まりました。私に頼み易かったのか、交渉やってくれとの依頼。結果、○○さんの了解を取りました。しかし、そのことがどこをどう回って知ったのか、天野先生から〇〇さんの文章は私の新聞には掲載しないでいただきたい、とのクレームがつきました。独協大学の名前が付くものはすべて私の責任。学生のやることはすべて私の責任です。独協大学の枠内はすべて私(天野先生)に従ってほしい、とも聞こえました。 現に、学長懇談会(学長と学生だけの懇談会)でも、学長の言葉に反発する声が挙がっても、「みなさんは学び、研究する立場にいます。一人歩きするには十分な知識が伴わない。どうか私の教育方針に従っていただきたい」と語っていました。 同じように教員に対しても私の教育方針に従えない方は独協から去っていただきたい、とも語っていて、この決意を話す前に「今日話すことは録音に録って、事あるごとに聞いていただきたい」と言った相手は、萬澤遼教養部長(当時、校歌の作詞者。その後副学長、以後「万澤先生」と省略)でした。懇談会の様子の録音は私が担当していて、通常は私が録音テープを保管しますが、この時はコピーも取らずにその場で万澤先生にテープを渡しました。でも、そのテープは二度と再生されることは無かったことと思います。なぜなら、すでに若手教員から、教授だけが出席している教授会に教授以外の教員も出席させるようにという要求があり、給与についての要望にも応えてほしいなど、獨協学園理事長を含めた会議が持たれる状態になっていたからです。 副学長を歴任した下川浩先生の退任記念号「わが獨協人生」を斜め読みしました。(教員の論文を掲載する『ドイツ語学研究』66号)。内容をすべて理解してはいませんが、こうした考えもあるんだ、と思った程度です。天野先生の獨協大学全員に対する教育方針がすべて正しいとは思いませんが、学生としては学ぶことが多くあったように思います。ただ、天野先生が京大での教員時代を楽しく過ごした時から50年~60年が過ぎていたわけですが、学生の様変わりを伝える人がいなかったことが残念です。学生部長の太田和彦先生が傍にいれば天野先生の考えが別にあったかもしれない、と思うこの頃です。(学生部長を辞任した太田先生の紹介は後ほどにします。) ✎ 新聞編集と新聞部の内幕 「独協大学新聞」創刊号の編集会議に戻ります。寄稿文の断りを 委員長が自分で断ればいいのに、再度私が押し付けられたので断りの電話を入れました。「天野先生から断られました」と伝えました。学生と大学側のゴタゴタ続きに土井先生は身を隠してしまいました。編集長をしていた私の同輩の神野勝弘には隠れ家の地図を渡していたようで、彼は箱根を訪ねています。神野はその地図を私に渡し古川も訪ねて来いよ、と言われたものの私は訪ねていません。この手描きの地図を今だに持っているのをどうしたらよいでしょう。 その後館山の獨協海の家で一週間の合宿が行われました。部長が不在の中で急遽前半は小栗一好先生がお嬢さんを連れて参加してくださり、後半は(後に学長になった)酒井府先生が同席されました。個人的な興味ですが小栗先生は入学試験発表の時、発表を見に来ていました。お嬢さんの発表か、別件だったのか伺うことはしませんでした。 その後ゴタゴタがくすぶったまま大学側から二人部長案が出され、学生の推薦で朝倉保平先生、大学側推薦で坂田善三郎先生が部長を務めることになりました。 開学一年経って太田和彦学生部長が突然辞任しました。後任に獨協中高教頭の町澤直治先生(天野先生の教え子)がやってきました。早速町澤先生から「独協大学新聞学会」とは何だ「新聞部」でいいじゃないか、とのクレーム。ここは委員長に任せたので経緯は知りません。「独協大学学生新聞部」に落ち着きました。町澤先生とは獨協高校在学中話したことはありません。獨協大に来てウルセー人だ、前任の太田先生とは違うな、と感じました。今、思うと多くは天野先生に対する忖度ではなかったかと思います。いつの間にか新聞部の中で万澤先生、町澤先生、所澤久雄先生の三人を三澤さんと称していました。 ✎ 太田和彦先生のこと ちょっと外れますが、太田和彦先生が学生部長を務めていました。天野学長が京大の教員時代、学生課長を経験し、楽しい生活を送った(天野先生の話)として信頼できる太田先生に学生部長を依頼されたと思っています。偶然私は太田先生と住まいが近く、頻繁に太田先生宅を訪ねました。突然の学生部長辞任に驚きましたが、太田先生は当時国立図書館短大(図書館情報大学に発展解消され、後にこちらも閉校)の学長でした。無給で学生部長をしていてはマズイと当時の文部省から指摘されて(たぶん)辞任となったのでしょう。天野学長も従わざるを得なかったと思います。太田先生の話では国立大の学長が私学の学生部長を務めるのは・・。(正確な表現は覚えていません)。太田先生はその後江戸川大学の学長に予定されていましたが、開学前に亡くなりました。 ✎ 学生新聞の一面を買取ろうとした大学 本筋に戻り、その後大学から新聞の一面を買い取るので大学の話題を入れてほしい、との提案がありました。学生新聞部は即断わりました。私は断るのか、と思ったものでした。 数か月後に第一回卒業式があり、学園紛争へと続き、大学が独自で発行したのが「獨協大学ニュース」でした。私は専攻科に残り在学を続けました。赤井彰先生が広報室を一人(だけではないでしょうが)で背負って「獨協大学ニュース」を編集していたので私は当初の4~5号あたりまで編集のお手伝いをしました。 「独協大学学生新聞部」は一期生を送り出してから、自力発行の力が無くなっていました。私は卒業を前に仲間と放送研究会を立ち上げました。部長をお願いしたのは先にご紹介した下川先生でした。 ✎ 応援歌「覇者」の思い出 私が独協大学新聞に関わっていた中で忘れられないのが応援歌「覇者」です。応援歌は学生に対し公募して決められました。詩が出来てさっそく記事にしました。新聞が発刊されるまでに校正という作業があります。書いた者以外が二人で読み合わせをしながら誤字脱字を見つけていくものです。「覇者」を校正していた部員二人が、歌詞の「覇者を目指しつつき進む」は「覇者を目指してつき進む」ではないのか、と疑問に思い、作詞をした谷川君に確認したところ、結局「覇者を目指しつつき進む」でよいとのことで、そのままにしておいて、というやり取りをしたことをよく覚えています。 それから10数年経って大学事務局の知人から、覇者の歌詞が「覇者を目指してつき進む」に変えられている、との知らせが届きました。しばらくは気にならなかったのですが、終活という年齢になって、谷川さんが確認した正しい歌詞に戻さなければならない、と活動を始めました。獨協大学を離れて数十年、現役の方とは付き合いがなく、親しくしていたこの詩の作曲者野田隆三君にもこの話をしたものの、数か月後故人となってしまいました。 この応援歌は必ず原作に戻します。応援のご協力をお願いします。 ✎ 途切れることなく思い出が・・・ もう一つ思い出があります。初めての大学祭を開催するにあたり、次の号の新聞の発刊を準備していました。私は翌年4月から始まる専門部の授業のカリキュラムの計画を紹介する記事を書きましたが不明な点が多く、ゲラの段階でもまとまらず、大学祭前日の最終ゲラまで延ばして記事をまとめていました。そんな時、菅原博事務局長から呼びだされ、大学祭に際しキャンパスに放送設備がない、獨協中高へ行って必要なものを持って来るから、何が必要なのか一緒に行ってほしい、とのことでした。私は新聞の校正があるので時間が取れないと言ったところ、この大学祭は何としても成功させたい、協力してよ、と言われて断り切れずに新聞の内容を犠牲にしました。翌年の専門部のカリキュラムは組みなおされました。発行された内容が正確だとしても、内容が変更されたため、新聞は役には立ちませんでした。 菅原事務局長と共に獨協中高で機材の積み込みが終わり、昼時になり、昼飯を食べよう、と連れて行かれたのがホテルグランドパレスのバイキングでした。初めてのことで一度に盛らないで、少しづつお代わりしなさい、と言われたことを思い出します。菅原事務局長は私が事務局に就職することを願っていたらしいことを知ったのは、ずーっと後になってからでした。加えると、私は太田先生から江戸川大学の手伝いも打診されました。共に実現しなかったのは大きな思い出です。 菅原事務局長は獨協大学創設の激務が続き、開学後数年で亡くなりました。1964年に開学されたのですが、5月5日になってもまだ教室には机、椅子が設置されておらず、菅原事務局長の息子さんも駆り出され、机、椅子を運び込んだそうです。息子には、こどもの日には親の手伝いをさせられたと言われるんだよと、後日になって菅原事務局長が語っていました。 翌5月6日から授業が開始されました。1棟(その後名称を2棟に変更、現在の東棟があった所)の2階ホールで学長の第一声が発せられました。背が低いのに台がなかったため、天野先生は学生から取り巻かれ、学生から見下げられる形になりました。言葉が出ないようでした。学生の数人が教室から教員用の机を持ち出し、学長を担ぎ上げての第一声となりました。この状況が写真、音声で残っていないのはとても残念です。 菅原事務局長の話で思い出したことがあります。菅原先生は獨協中高の教師で、授業を受けたことはありませんが、高校入試の面接員で私のことを覚えていてくれたようです。覚えていてくれたという話の内容はいつ、どこでの話か覚えていません。その菅原先生が、同僚(たぶん獨協中高)の結婚式の司会を引き受けた時のこと、季節は夏だったそうです。ご自身は夏の礼服を持っておらず、夏のスーツで出かけたそうです。後になって同じ結婚式に出席していた天野先生から、礼服を持っているなら夏でも冬物でよいから、礼服を着用するように、と注意を受けたそうです。レンタル衣装が無かったころでしょう。私が結婚式の招待を受けたときは、いつもこのことを思い出します。 そう言えば、赤井彰先生から週刊朝日の入社試験を受けないか、との話がありましたが無理でした。週刊朝日だけで朝日新聞のほうへの移動はないから、とのことでしたが朝日には関心はありませんでした。負け惜しみではありません。入社試験は不定期なもので赤井先生が週刊朝日の知人から希望者が集まらないのとのことで声をかけたそうです。試験は面接だけでした。 「独協大学新聞」に関して思い出が後からあとから湧き出ます。朝倉保平先生から「独協大学新聞」は創刊号からすべて揃えて図書館に届けたと聞いています。ちょっぴり私の足跡を見ることができるんだなぁと嬉しく思っています。 ✒古川 俊夫 1968年(昭和43年)経済学部卒業 獨協大学学生新聞部・放送研究会 |